■温 曼基

名は恢。

父親は涿郡太守になったが、温恢が15の時に死去。
そのとき、温恢は父の財産をすべて一族に分け与え、中原の各地で県令などを勤めた。
その働きが曹操の耳に届き、後に丞相主簿に就任し、
のち合肥太守・劉馥の後任として揚州刺史。当時丹陽太守だった蒋済が補佐に就いている。
揚州の人心を得るための措置らしく、そのあたりは蒋済伝に記述がある。

温恢は内政ばかりやってたように思われるが、比較的軍事に明るい人物だったらしく、
張遼らが合肥に駐屯する際は「良く相談して事を決めるように」と曹操に言い残されているほど。
軍事・政治に明るい側近を合肥に派遣したという事実は、
曹魏にとって合肥の防衛線がどれだけ重要だったかが伺える。
その事は、曹操が温恢に「君を側近に置いておきたいが、揚州の政治の重大さには比べられない」
と述べていることからも把握できるだろう。

曹丕の即位後は再び中央で働き、最後は涼州刺史に任命された(おそらくは張既の後任)。
ところが、任地に赴く途上で病死。享年45というから…合肥駐屯時はおそらく30代前半。
経験豊富な貴重な地方官吏を失ったといってもいいだろう。
司馬朗・張既・賈逵とともに、かなり惜しまれる早世である。


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