Scarlett ネタバレ感想ルーム

(はじめに ねこねこソフト解散に関して)
『銀色』『みずいろ』『朱』『ラムネ』といった作品を生んできた「ねこねこソフト」が解散…
その一報を聴いた時は信じられないような思いでした。

私が美少女ゲームを始めたのが98〜99年頃。
Studio egoの『キャッスルファンタジア聖魔大戦』が最初でした。
その後、Leafの『こみっくパーティー』や旧作の『雫』『痕』『To Heart』などをプレイし、
Tacticsの『ONE〜輝く季節へ〜』、keyの『Kanon』といった名作をプレイし、
2000年頃は美少女ゲーム業界の最盛期とも言える状態でした。
その頃に生まれたメーカーが「ねこねこソフト」さんでした。

一作目の『White〜セツナサのカケラ〜』、私は時期の関係上プレイしませんでしたが、
雑誌のテックジャイアンに収録されていたショートストーリーに感銘を受け、興味を抱きました。
二作目の『銀色』、当時は美少女ゲーム雑誌での扱いも小さく、
ほとんど事前情報はありませんでしたが、
ネットで公開された独特の世界観に興味が惹かれて購入。
生きることの悲しさ、難しさ、そして日常の大切さを描く姿勢に感銘を受け、
以後、ねこねこソフトさんの虜となっていきました。
三作目は『みずいろ』。
銀色が口コミで広まっていたこともあり、この頃には認知度も上がっていましたが、
それを決定的なものにしたのがこの『みずいろ』でしょう。
今の美少女ゲーム業界の主流である萌えゲーを作ったとは言いませんが、
(作ったのはLeafやF&C)、
その流れを確実にしたのは『みずいろ』だったように思います。
「ぽんこつ」という表現が広まったのもみずいろがあってこそ。
『みずいろ』はねこねこソフトの代表作となり、多くの人に知られるようになっていきました。
続いて『ねこねこファンディスク』の発売、
そしてファンクラブの募集開始、無料で送られてくる「お返しCD」、
ユーザーフレンドリーな姿勢もあって、ねこねは美少女ゲーム業界の上位に位置するようになりました。

しかし以降は苦戦の連続だった印象を受けます。
その次に発売された『朱』は散々な結果に… 出荷量の多さもあいまって叩き売りが目立ったほど。
作品自体は素晴らしいものでした。
音楽もシナリオもCGも、そのスケールも。全てがねこねこ史上最高の傑作になるはずでした。
けれどもねこねこソフトの認知度が上がってしまったからこそ、朱は低評価となってしまいました。
初めてねこねこ作品をプレイする人にとっては、みずいろのような萌え路線を追求する人にとっては、
朱で表現しようとしたことは退屈過ぎてしまったのです。
朱は銀色の続編でした。だがそれは事前に発表されませんでした。
それ故に銀色をプレイしてない人は置いてきぼり、
さらに重いシナリオであったため、単純に萌えるということもできない…
ねこねこソフトの認知度が上がった故にソフトを購入した新規ユーザーの評価が暴落、
朱は失敗に終わってしまいました。

その後、『ラムネ』『サナララ』などの作品を出すも今一つ。
以前のような高評価は得られませんでした。
この頃からスタッフも入れ替わり始め、さらにそれまで音楽を手懸けていたfeelが解散。
ねこねこソフトは音楽を外注していましたから、これが痛手となりました。
そんな中でも定期的にお返しCDは無料ファンクラブ会員に送られ続け、
『120円シリーズ』といった代表作も生まれましたが、悲しいかな無料、
コミケでの関連グッズ販売やコンシューマ移植で多少は補えたでしょうが、
とても順調を思える状態ではありませんでした。

やはり痛かったのはお返しCDでしょう。
普通のメーカーの物とは違い、これだけで十分お金を取れるような内容の濃さでした。
今の低価格ソフト、2000円台のものを計6〜7回ほど無料で出したわけですから…
しかも一度ファンクラブ登録すれば、以降のソフトをプレイしてなくても送られましたから、
時間が経てば経つほどお返しCDの負担は大きくなっていったと予想されます。
それだけのものを送るのですから、
せめてファンクラブ会員料ぐらいは取ってもいいのではないかと思いましたが、
ねこねこソフトさんはそれをしてしまうとねこねこではなくなるという理由で続けました。
ユーザーフレンドリーの姿勢がねこねこを大きくし、
同時に首を絞めていったというのは何とも皮肉なことです。

今作でねこねこソフトが解散してしまうのはとても悲しいことです。
しかしそれと同時に「仕方ないかな」とも思えます。もう限界でした。
こういった同人感覚のユーザーフレンドリーな姿勢だけで会社が成り立つほど、
美少女ゲーム業界は小さくなかったということです。
収益性が小さいままであったにも関わらず、ユーザー数は増加していき、
さらにユーザーは萌えを中心とした安易な方向へ走ってしまい、
自分達の好みに合わなければ排斥するようになり、
メーカーはユーザーに媚びた作品しか作れず、
かつてのようにメーカーが本当に作りたいものを作れない状況になってしまいました。
最後までそのスタンスを守り続けたメーカー、ねこねこソフトが解散…
我々美少女ゲーマーの甘えが引き起こしてしまった事態だと思います。
快楽に甘え、無料に甘え、評価に甘え… そんなユーザーの甘えが起こした事態なのでしょう。
もちろん、ねこねこソフトさんの経営の甘さもあったことは事実です。
しかしそんなメーカーが生き残れない世の中になったことに、悲しみと怒りを禁じえません。

ねこねこソフトの解散は、美少女ゲーム業界が曲がり角に来ている象徴のように感じます。


…って、いきなりゲーム以外のことから入ってスイマセンでした(^^;
それでもやはりこれに触れずには要られませんからね。
失礼ながら自分なりの見解を書いてみました。
私の感覚ですので、どれだけ客観性を持つのかは知りませんが、私はそう感じたという話です。
そんなわけで、『Scarlett』について語っていきま〜す。



(その1:「Scarlett」に関して)
まずはタイトルから考えます。
「Scarlett」というタイトルが具体的に何を指すのかは正直分かりません(^^;
英語表記では「scarlet」(緋色)となり、tは余分です<他の言語は知りません。
みずいろの頃から「scarlett」でした。
いや、厳密には違いますね。ただカタカナで「スカーレット」だったと思います。
初めて「scarlett」となるのは、ねこねこファンディスクで歌詞が付いた時です。
このtに意味があるのか、誤植だったのかは分かりません。
いずれにしても『Scarlett』の本当の意味は、歌の「scarlett」にあると思って間違いないでしょう。

元々、「スカーレット」は『みずいろ』の終盤で使われた曲でした。
ピアノ調の少し切ない感じのする曲で、
終盤のシーンもあって主題歌の「みずいろ」とともに愛された曲でした。
その曲に歌詞をつけたものが「scarlett」、
ねこねこファンディスクのショートストーリー「チョコレート」で使われた曲です。

「チョコレート」はみずいろのヒロインの一人、日和のサイドストーリーで、
みずいろのゲーム開始前のエピソードを扱ったものです。
隣町に住んでいた日和は友達の水津濃さんに連れられてバレンタインのチョコを買いにやってきます。
そこで日和はかつての自分を思い出します。
昔一度だけ男の子に作った手作りチョコ、作ったけれど渡すことができなかった手作りチョコ、
その切ない思い出をおぼろげながら思い返すわけです。
そこにかつての男の子である健ちゃんが偶然通りがかり、2人は言葉を交わすわけですが、
健二は日和に全く気付かず、日和はどこかで会ったことがあるような気がしながらも尋ねられず、
そのまま2人はすれ違ったまま別れていくという、そんな少し切ないお話です。
その2人が出会うシーンでこの「scareltt」は流れます。

 Rain drops drow
 雨音に 目を伏せた
 触れた指先を 今も

 蒼い水波 変わるシグナルに
 雨のリンクを 飛び越すの
 長いステップ 跳ねる髪揺れて
 映る景色達は
 染まらない あの日から

 目を閉じて そこにあるScene
 いつまでも そう褪せず
 白い吐息 空と海
 ありふれた冬日

 銀の 街路樹
 刻む シグナルに
 動き出した日 遠くなる

 歩く スピード
 後を 追いかけて
 望む明日は でも
 振り向いてくれなくて

 切なくて出したサイン
 いつまでも そう夜を
 遠くなる 無邪気だった日
 ありふれた 夜も

 映る世界は 今
 染まらない あの日から

 目を閉じて そうここにいる
 いーつまでも 褪せず
 白い吐息 空と海
 忘れない 今も

 Rain drops drow
 雨音に 目を伏せた
 触れた 指先を 今も

その後、この「scarlett」は『朱』でもアレンジバージョンの曲が流れます。
こちらは「Scarlet 2」。正式な表記で「緋色」という意味になります。
この曲もまた終盤の切ない場面で流れるなど、朱の数多くある名曲の一つです。
他にも『サナララ』などでも流れるようです。

そう考えていくと、「scarlett」はファンディスク説明書の誤植だった気もしてきます(^^;
そして今回、その誤植をわざと利用したのでしょう。
『Scarlett』はみずいろから連なるねこねこソフトの歴史そのものなわけです。
最後に込めたねこねこソフトの思いを、タイトルからも感じ取ってもらいたいですね。



(その2:プロローグ部分に関して)
『Scarlett』は『朱』の時とは違い、消化不良・説明不足の部分がほとんどないため、
特にネタバレとして説明することもないでしょう。
以降は私の簡単な感想を書いていくことにします。

まずプロローグ部分から。
最初に登場する男性キャラ「大野明人」、
彼のような気持ちは誰もが一度や二度、思ったことのあることでしょう。
例えば幼い頃、特撮やヒーローアニメを見て正義の味方に憧れたり、
お姫様や魔法少女といったヒロインに憧れたり、
誰もが一度や二度、飽き足りた日常ではない「非日常」を求めたことがあるはずです。
人はいつしか時間に流され、人々に流されることで、
「非日常」という夢を捨て去っていきます。
けれど非日常に対する憧れは絶対になくなりません。
それがなかったらハリウッドはとっくの昔に滅んでます(爆)
誰もが求めてやまない「非日常」、
大野明人というキャラはそういった我々の生き写しのような存在として描かれていきます。

そんな彼がこのゲームの真の主人公である「別当・和泉しずか・スカーレット」と出会うことで、
『Scarlett』の物語は始まります。
日常から脱却し、「非日常」の世界を求める明人、
非日常の世界に身を置きながら、「日常」の世界を求めるしずか、
正反対の2人が印象的に描かれていました。


プロローグとしては良い出来だったと思います。
明人には共感できる部分が多いと思いますし、
それだけで今回のテーマに引っかかってくれていると言えます(^^;
ただ明人が「優秀な人間」であるため、そこが少しネックになってるという気がしないでもないです。
まぁ、だからこそ日常の閉塞感が強調されるわけですが。
下手すると「贅沢言うんじゃねーよ、ガキが」となりかねないのが危ない所(爆)
個人的にはかなりギリギリな線だったと思います。程度って難しいね〜

後々、明人は片親であることが語られるわけですが、
個人的にはこのプロローグ部分で出しちゃった方が良かったと思います。
そうすれば「完璧な人間」「約束された人間」という像が少し崩せたかなと。
勿論、片親だとそうなるというわけではありませんが、少し違う印象は受けたと思います。
そこがやや残念だったところでしょうか。大筋においては○。



(その3:1章「本物」に関して)
この章も明人中心の視点で描かれており、
しずかとの再会、アメリアとの出会い、九郎との出会い、
そして明人が日常から非日常へと足を踏み入れる姿が描かれています。

誰もが日常に飽き飽きしており、非日常に憧れます。
けれどそれは「憧れ」に過ぎず、実際に非日常に踏み込むのは別問題です。
日常に居ながら非日常に踏み入れようとしても、
それは本物ではない、偽物でしかない、
非日常を本物にするためには、自らが非日常の人間にならなけらばならない、
そんな日常と非日常の境界線を描いたシナリオとなっています。


この1章は4章の伏線となっています。
ですから、プレイヤーの多くが感じるであろう明人の覚悟の甘さ、
九郎の判断の甘さには目を瞑りましょう。
日常と非日常の境界線、それは曖昧そうに見えても、高い壁が存在しているようです。
日常を取るか、非日常を取るか。
何かを得るためには代償を払わねばならない、銀色・朱を思い浮かべます。
明人は朱のファウと同じように、答えを先延ばしすることができましたが、
その曖昧な覚悟から4章で再び答えを出さなければならなくなるわけです。

私は二者択一という考えは好きではありませんが、
もしその二者を得ようとするならば、二者を得るだけの努力をしなければならないのでしょう。
それだけの努力をするなら、他力本願で代償を払って銀糸に祈るよりも、
自分で努力して勝ち取った方がはるかに楽なのかもしれません。
そして明人・九郎がもし日常・非日常の両方の世界を求めるとしたら、
その2つを守れるだけの力を努力して得なければならないのでしょう。
それは酷く難しい問題です。だから人は一方しか選べません。
いきなり最後の部分を語るのもアレですが、
Scarlettに続編があるとすれば、
父の八郎と同じように九郎達が新しいルールを作る姿が描かれるのでしょうね。
日常と非日常の両方の世界で生きられるルールが作られるのかもしれません。
しかしそのルールを作った時、人は又新たなものを欲し、
そして二者択一の選択肢に迫られながら、また新しい選択肢を生み出していく、
人の歴史とはそういったものだと思っています。
…って、ちょっと話が逸れましたね(^^;
話を戻しまーす。

1章で感じ取って欲しいのは、諜報家の駆け引きです。
世界を本当に取り仕切っているのは誰か…こういうことを一度は考えておきたいです。
勿論、これはフィクションですから、高級諜報家というものが存在しているとは言いません。
彼らにしても国家の指示を受けているわけで、
自由な裁量権がある代わりに国家・地域に絶対服従しているようなものです。
国の元首や政治家にしても、
官僚や国家を裏から支えるようなブレーン的存在も、互い互いで利用される関係にあります。
結局、九郎が最後に言うように、
世界を動かしているのは「見えない意思」や「流れ」なのかもしれません。
現実的にはそこに人のエゴ・利害対決も絡むわけですが、
九郎の考えていることは大筋で当たっていると感じます。
とりあえずそこまで考えずとも、
ニュースで報道されるような政治の動きは規定路線にあるもので、
シナリオ道理に政治家達が動いているに過ぎないという考えは学び取って欲しいです。
もちろん、全部が全部そうであるわけではありませんが、
アメリカ産牛肉の輸入停止・再開といった問題はその典型的なものと言えます。
これのせいで小難しい話になってしまった気もしますが、
たまには萌えゲーマーも頭を動かせということで良かったんじゃないかと(笑)
なかなか興味深いシナリオでした。



(その4:2章「再来」に関して)
この章は九郎中心の視点で描かれており、
高級諜報家の任務の厳しさ・非常さといったものを描いています。

この章は…あんまり重要ではないんですよねぇ(^^;
後々との関連性もないですし。
2章はテーマを考えずに、純粋にシナリオを楽しむのがいいかもしれません。
高級諜報家の仕事ぶりを堪能しましょう〜

この章での明人は非日常の人間として登場してきます。
すぐさま相手を射殺することを思い浮かべる辺りがもう( ̄□ ̄;
選挙戦での候補者の死や宗教指導者の死の意味を理解してない。
まぁ、結果的にそれを自分達が利用したわけですが。
あのシーンは政治の冷酷さと必死さを端的に表しましたよね。
九郎ら高級諜報家にとっては政治家は「日常」の人間なのかもしれませんが、
2章で描かれている人達の政治への思い・覚悟は、
私達にとって「非日常」と映るかもしれません。
「日常」「非日常」の境界線が人によって違うこと、
それをひょっとしたら2章は示していたのかもしれません。

いやー、しかし…あの二ネットの父親みたいな政治家が日本にもいればなぁ…(苦笑)
つーか、二ネットが大統領なら、ミビア国民になりたいです(爆)

えー、2章に関してはここらで終了。
たいしたこと書けませんでしたが、次に行きま〜す。



(その5:3章「縁」に関して)
最初、タイトルが「緑」だと思ったのはここだけの秘密です(爆)
英語の副題がbloodですから、縁は縁でも血縁という意味でしょうね。
この3章が『Scarlett』の実質的な中身と言えますね。
1・2章は茶番劇。ここからが本番です。

シナリオ開始時はプレイヤー置いてきぼりの展開となります。
「レオン」って誰? 誰もが思うことでしょう(^^;
これまでと全く違う登場人物、時代・場所に面食らいます。
長く内容の濃い1節を終えた後、
ようやく和泉八郎という人物が出てきて共通点を見出せるようになってきます。
プレイヤーは当初、これまでと全く違うシナリオに驚きますが、
徐々にそのストーリーに引き込まれていき、Scarelttの全体像を理解していきます。
そういう意味では理想的な「転」の展開。上手くプレイヤーを誘導したように思います。

この3章は生き詰まりを見せていた社会主義、
東ドイツという国柄を表すような重たい雰囲気で始まります。
3章を味わえるかどうかのポイントは、最初にこの雰囲気に慣れることができるかでしょうね。
私はどちらかというと苦手な方ですが、銀色や朱である程度の耐性が付いているので平気でした。
亡命後も消えゆくイリカの命、レオンの犯した罪といったように終始重い雰囲気が続きますし、
この雰囲気にさえ慣れることが3章を理解する近道です。


まず3章のポイントは1節ですよね。
東ドイツで生まれた主人公・レオンは子どもの頃に母親を亡くしてしまい、
大切な人を失った悲しみから塞ぎ込んでしまうようになります。
そこにエレナという女性が現れ、彼の心を徐々に開いていくのですが、
子どもということで自分のことしか考えられなかったレオンはエレナの病気に気付けず、
2人は悲しい別れをすることに。
それをきっかけとして医者を志し、名医と呼ばれるようになったレオンでしたが、
久々に再開したエレナは既に手遅れ、死別という悲しい結末を迎えます。
エレナを治すために医者となったレオン、己の無力感から医師を辞めることを思いますが、
エレナの娘・イリカの言葉「ありがとう」に救われ、イリカと共に生きていくことに。


3章1節は泣きました、普通に泣きました。
幼いイリカの言葉、あれは凄いですよね。
「ごめんね」じゃなくて「ありがとう」。凄い言葉だと思います。
この言葉が出てくるのはエレナの日頃の言葉があったからこそなのでしょう。
幼い頃のレオンがエレナに言った言葉、「君はごめんねばかり言っているね」、
エレナは辛い境遇、ともすれば運命や全てのものを恨み、投げ出しかねない中でも、
自分が生まれてきたことに対する謝罪の言葉を抱いて生きるのではなく、
周囲・レオンへの感謝の言葉を抱いて生き、そして死んでいったエレナ…
幼いレオンがエレナを救い、エレナの遺したメッセージがレオンを救い…
二人の絆の大きさ、エレナの暖かさに心が震える瞬間です。
エレナは娘であるイリカに対して日頃から感謝の言葉を口にしていたからこそ、
母を失って悲しみの中にいたイリカもまたレオンにその言葉を伝えられたんです。
こういった「言葉の重要性」というものを今の人々は忘れかけています。
親の言葉は子どもに返るわけで、エレナの姿は言葉を忘れかけている私達にとても美しく見えます。
もうこれだけでお腹いっぱいになるほど。素晴らしく感動的なシーンだったと思います。

でもこれが伏線でしかないというのが3章のシナリオの秀逸さなんですよね。
普通のゲームなら、1節で話が終わってますよ(^^;


ここからストーリー説明は簡略化します。まぁ、ゲームをやれば分かることですしね。
レオンは八郎と技術を悪用しないことを誓ってアメリカに亡命するも、
イリカの病気を治せないことを痛感し、禁断の技術を用いることに。
それはイリカのクローン人間を創り、そのクローンの臓器を移植しようという恐ろしいもの。
当然のことながらその臓器は新鮮なものでなければならず、
クローン人間は臓器摘出装置として殺されるために生み出されるものなわけです。
レオンがどれだけ追い詰められていたかが伝わってきます。
しかしイリカのクローンである「シズカ」がイリカと出会ってしまったことで彼の計画は崩れ去ります…


まずエレナ・イリカの病気ですが、最初は自分、エイズと勘違いしてました(爆)
イリカの父親も死んでいたので勝手にそうなのかな〜と。
シナリオが進んでいくうちにどうやらそうではなく、「ADA欠損症」ということが分かります。
ADA欠損症に関しては用語説明やネットで検索して調べましょう。遺伝病の一つとのことです。
レオンの研究している技術がいずれADA欠損症の治療法となるわけですが、
当時はまだ実用段階に入っておらず、イリカには間に合わないという状況。
そこで彼はクローン人間を創ることにするのですが…
その是非はまた後で語るとし、レオンのその動機にプレイヤーは共感する部分があったでしょう。
私も共感する部分がありました。
彼の愛しい人を救いたいという気持ち、それは誰もが持つ気持ちなのだと思います。
それと同時に生まれる人間倫理のタブー行為、
クローン人間の作成そのものもそうですが、何よりも臓器摘出のために生み出すその残酷さ…
人の命を救うと同時に人の命を無残に奪うその相反する行為、それに悩み、苦しみます。
人の命を救うということは何なのか、その境界線はどこにあるのか、その答えはまだ出ていません。
これを機に考えてほしいテーマの一つですね。


イリカとシズカが出会ったことでレオンの計画は崩れ去り、
レオンの目的とシズカの存在を察したイリカは残りの人生を3人で過ごす時間に当てることにします。
イリカが望んだのは3人の穏やかな「日常」。
それはかつてのエリカが望んだものでもあって、得たくても得られなかったこと、
ほんの些細なことながらもその「日常」の大切さに気付いた時には、残っていた時間は僅かで…
レオンとイリカの夫婦、そして娘のシズカ…
そんなささやかでありながら、気付くことのできない日常はイリカの死と共に消えていきます…


最近は「末期医療」がよく話題になります。
分かりやすい言葉を使うと、「安楽死」「尊厳死」といったものです。
死期の迫った患者がどう最後を迎えるのか、それが話題になっています。
ガン告知を受けた女性が自分のやりたいことを列挙して、
それを一つ一つこなすアメリカの映画がありましたね。
自分はその映画を見ていないので、詳しい内容は分かりませんが、
最後をどう生きるかに強い関心が行っていることは確かです。

このストーリーにおいてイリカはささやかな「日常」を求めます。
幼い頃から医者のレオンと一緒に居て、それ故に遺伝病の心配をされて過保護的になってしまい、
すぐ近くにありながらも求めていた日常を得られなかったイリカ、
最後の最後になってようやくそんなかけがえのない日常を手に入れるわけです。
レオンが本当にするべきだったことは何だったのでしょうか?
医者の本分からすればイリカを治すことなのでしょう。
けれどレオンは治療に没頭するあまりに、
イリカが本当に求めていたものを与えることができませんでした。
レオンが本当にすべきだったことは医者として近くにいることではなく、
レオンという一人の人間として真摯にイリカと向き合うことだったのです。
かつての私達は末期患者にガン告知をしないことが幸せだと思ってました。
でもそれは本当に患者に対して真摯に向き合っていたのでしょうか?
病気という現実、迫りくる死という現実からただ逃げていただけのように思います。
レオンの姿は日々流されて生きてしまう私達現代人そのものです。
一見すれば「日常」を共有できているようで共有できていないそんな姿はとても悲しいです。
それでも最後はイリカが求めた日常を得ることができた、
その日常の大切さを共有できただけでもイリカ達は幸せだったと思います。
末期患者に対してどう接するのが一番いいのか、それは私にも分かりません。
ケースバイケース、人によってそれは違うでしょう。
ただこのイリカのケースを私達は心に留め、真摯に向き合えるようにしていきたい、そう思いました。

この「日常」のすれ違いを端的に示したCMが今流れていますよね。
「何で勉強するの?」というアレ(^^;
親の立場からすれば、それが幸せに繋がると思っていますが、
子どもが求めているものはそれとは別にあるということです。
おそらく子どもは人生経験の不足から、それが何か理解できてはいないのでしょうが、
確かに求めているものがあるのだと思います。
イリカが些細な「日常」を求めたように、子どもも心の奥底でそれを求めているのかもしれません。
逆に子どもがそんな些細な「日常」に気付くことがでないだけかもしれません。
得ようとしても得られない「日常」、得ていたとしても気付かない「日常」、
エレナがイリカに対して、イリカがシズカにそんな日常の大切さを教えたように、
私達もそんな日常の大切さを噛み締められ、真摯に相手に向き合える人間になりたいものです。


で、いよいよ3章ラストの部分です。
色々と現実の問題と絡めて話をしていますので、話があっちこっち行っちゃって申し訳ありません(^^;
それだけ多くのものを感じ取れるシナリオということです。
ではラスト部分を簡単にまとめます。
エレナに続き、イリカをも亡くしてしまったレオン。
彼は医師を志した時にかつて父が見せた悲しい表情の理由を悟り、
母・エレナ・イリカと過ごした懐かしい風景を見に行く…
果たせなかったピクニックの約束、2人与えることのできなかった「日常」…
彼の中にあったのは医師としての無力感でもなく、イリカを失った悲しさでもなく、
ただ一人の人間としてエレナ・イリカに向き合えなかった自分の愚かさだった…
悲嘆にくれたレオンはその責任を感じて死のうとする。
かつて、エレナが死んで医者を辞めようと思ったように、今度は人間を辞めようと…
しかしその時、シズカがレオンを止めたのだった…
そうあの日と同じ言葉で… 「ごめんね」じゃなくて「ありがとう」だよ、と…


ダメです。思い出すだけで涙が浮かんできてしまいます(爆)
もう一度確認しようと思ったんですが、おそらく号泣して無理。サンドイッチでダウンでしょう(;o;)
このシナリオの価値はここにあります。
それまでの展開はわりと多くの作品に見られることです。
美少女ゲームなら『Kanon』真琴シナリオが似た展開を見せますし、
小説・ドラマの「世界の中心で愛をさけぶ」「愛と死を見つめて」など多くの作品があります。
でもScarlett3章はそれらになかった視点を持っています。
ねこねこソフトならではの「日常」という視点を主眼に持ってきています。

レオンが自暴自棄(というのもアレだけど)になった理由、それが何よりも重要です。
彼は医師としての無力感で悲嘆にくれたわけでも、愛しい人を亡くしたためでもなかったんです。
もちろん、それらもあったでしょう。でもそれが主な理由ではなかったのです。
彼にあったのは「後悔」、それは医師としてではなく一人の人間としてイリカに向き合えず、
イリカの求めていた「日常」を与えられなかった後悔によるものです。
母も、エレナもイリカも…彼は自分のことで精一杯で大事な人に向き合えませんでした。
いや、本当は向き合っていたんです。けれど彼自身は向き合えなかったと思ったわけです。
そう思っていた彼を救ったのが、かつてイリカから聞いた言葉でした。
「ごめんね」じゃなくて「ありがとう」…
エレナもイリカも、短いながらも楽しく過ごしたレオンとの日常を心に抱き続けていたんです。
レオンは与えた時間を後悔していたのですが、エレナもイリカもその質を大事にしていたんです。
だからエレナもイリカも「ありがとう」とレオンに伝えられたのでしょう。
レオンが与えられなかったと思い込んでいた日常は確かにあった、
その一言に彼の魂は救われたのです…

エレナとイリカの最後の言葉が「ごめんね」であった理由は、彼女達の優しさだったのだと思います。
レオンが優しい人物であったことを知っていたからこその言葉、
彼が自分を責めないように気遣っての言葉だったのだと思います。
それは彼が誤解したような謝罪の言葉ではなく、彼が生きていくための優しさ、
そこに込められた本当の意味は「ありがとう」である感謝の言葉だったのでしょう。
だからレオンが最後に彼女達に伝えるべき言葉は「ありがとう」、
その言葉を返すことだったのかもしれません。
最後のピクニックの場面、彼はシズカを忘れてきたのと同時に、
彼女達に本当に伝えるべき言葉を忘れていたことに気付くわけです。
それが最後の最後、彼ができなかったこと、言う資格がないと感じたことだったのだと思います。


普通の病気モノのドラマで涙する理由は「死んで悲しいから」です。
レオンが母・エレナ・イリナといった愛しい人達を亡くした悲しさは想像を絶するものでしょう。
他者を失った悲しみ、自分の中にある他者を失っていく悲しみ、他者の中にある自分を失う悲しみ…
それを想像しただけでも私達は涙します。
でもレオンの中にある本当の悲しさは、「日常」を与えられなかった悲しさ、
そして「日常」に気付けなかった悲しさだったのです。

ここから少し手厳しい話をします。
今の道徳観念からすれば、非礼なことを言うでしょうが、それでも書きます。
私達は死を悲しいと思います。
長く生きたい、それは当たり前の感情でしょう。
長く生きればそれだけ可能性が生まれます。多くのことができます。
エレナもイリカも今の時代の人間ならば、治療可能だったかもしれません。
そして彼女達はレオンと楽しい日常を生きることができたかもしれません。
けれどもひょっとしたらレオンは名声に心を奪われ、研究に没頭するあまり、
彼女達と日常を過ごせなかったかもしれません。
私達は死を避けたくて、治療を受けます。
単純な移植手術だったり、臓器移植だったり、脳死状態の心臓移植だったり…
多くの人が生き延びようとします。誰だって生きたいと願います。

では早くして死んでしまう人は無価値なのでしょうか? 死の意味を否定していいのでしょうか?
日本は死の判定に厳しい国ですが、生の判定に対しては生ぬるいです。
一概に否定はできませんが、堕胎を広く認める傾向にあり、
中には快楽のSEXによる妊娠だったから下ろすという単純な理由をも認める傾向にあります。
死を悲しいと思うなら、なぜ新しい生命を簡単に殺せるのでしょう…
胎児は人間でない? まだ生きてないから? なら出てきた赤ちゃんを殺してもいいのですか?
多くの問題点を持ちながらも、私達は簡単に堕胎を言ってしまいます。
一方で死を悲しみ、一方で容赦なく生命の樹を摘み取る。
私達が行っていることはレオンのしようとした行為となんら変わらないんです。
必要ない・都合が悪いから堕胎する、必要な臓器を取り出すために殺す、結果は同じでしょう。
もちろん仕方のない場合もあるのは分かります。それでも許容範囲が広すぎます。
堕胎を広く認めて、死にだけ敏感というのは理解できないことです。

生きている人が死ぬこと、それは確かに悲しいことです。無為に殺されることは憎むべきことでしょう。
でも早くに死んだ人を、殺された人を不運だったの一言で片付けていいのですか?
人間はいずれ死にます。老衰で死ぬ人は僅かです。
いずれは何らかの病気を抱えて死んでいく人が多いのです。
それは不運なことなのでしょうか? 無価値なことなのでしょうか?
死は全ての終わりを意味するのではないと思います。
簡単に言えば、「卒業式」、「締め切り」みたいなものなのでしょう。
私達がその卒業式までに人生をどう生きたか、時間ではなく、その中身が重要です。
つまり長く生きることが重要ではなく、どう生きるかが重要ということです。
長生きする方が中身を濃くできるかもしれません。
極端なことを言えば、不老不死であれば中身をより充実させることも可能かもしれません。。
だけど人間は怠惰で鈍感で、限りのあることも忘れちゃいそうになって、
今ある日常が大切なことさえも忘れちゃって、それに気付くこともできずに文句ばっかり言って…
限りがあるからこそ、生きることに真摯になれるのだと私は考えます。

レオンの生き方を否定するつもりはないです。
ただ彼はなかなか大事なものに気付くことができませんでした。
私達も同じです。
大事なもの、かけがえのない日常、人生の中身に気付くことなく日々を過ごしています。
病気の子どもを持つ親御さんがそれを治したいと願うのは当然でしょう。
移植のために規制の厳しい日本から外国に活路を見出すのも当然だと思います。
だけどその前に「死なない」ためでなく、「日常を生きる」ことをしているか振り返ってもらいたいです。
もし手術して病気が治ったとしても、今度はその副作用を取り除くことを願い、
そして五体満足になったとしても、今度は富などの裕福さを求めたりと…
人間は欲深いもので、その思いを止めることはできません。
それが悪いこととは言いませんし、言えません。でもそれでいいのですか?と。

私達はともすれば「日常の大切さ」「幸せ」を忘れてしまいます。
社会に流されて、時間に流されて…
でも本当に大切なものはすぐそばにあって…
あなたは幸せと感じていますか? 今の日常を大切に思えていますか?
現状に不平不満ばかり感じていませんか?
見つけてください、生きている意味を、今自分が生きているという実感を。

いきなり結論を持ってきちゃいますが、
「銀色」も「みずいろ」も「朱」もねこねこの作品テーマはいつも同じでした。
「日常」の大切さに気付くこと、感じること、味わえること。
銀色や朱のように不幸と思われる人生もあるでしょう。
それでも日常の大切さに気付いた人達は、死んだとしても生きたことを誇りに思えたんです。
レオンのお母さんも、エレナもイリカも、そしてしずかも、それに気付いている人達です。
エレナやイリカは客観的に見て不幸な人生だったとしても、彼女達は輝き続けました。
そして自らが輝いただけではなく、レオンを始めとし、しずか達をも照らしたんです。
重要なのは死なないことではありません。よく生きることです。
よく生きるということは「日常」の大切さに気付くことです。より幸せと感じることです。
それが私がねこねこソフト作品から受け取った想いです。


えー、かなり感情が入ってしまいましたが、私はそんなことを思いました。
「日常」の大切さを知っていたエレナとイリカの姿、
最後にその大切さを知ることができたレオン、レオンを救った「ありがとう」という言葉…
そこから何かを感じ取ってもらえれば、私はそれでいいと思います。
上に書いたのは私が感じ取ったものに過ぎません。もっと他の感情も抱くかもしれません。
その感情を大事にしてください。そしてそれをあなたの「日常」に生かしてください。
3章はとてもいいシナリオでした。ねこねこの総決算的シナリオだったと思います。




(追加)
話が一気に『Scareltt』のまとめに入ってしまい、3章ラストのまとめが十分できなかったので、
「追加」として簡単に整理しておくこといにします(^^;
最初に同種の作品を列挙しましたが、それらの内容との違いは、
命のはかなさを描いたものでも、純愛を描いたものでもないということです。
むしろそれとは逆。儚いからこそ命が輝いているんだということを強調しているのです。
既に説明したようにレオンが悲しんだのはイリカが死んだからではないのです。
イリカが死ぬまでの「日常」をどう過ごしたかに対して悲嘆にくれているんです。
他の作品も結果的に日常の大切さを語ることにはなると思います。
けれど3章はそれが主に来ているからこその結論が生まれるんです。
私達が3章で涙する本当の理由は、「不憫さ」や「悲しみ」ではありません。
それは「エレナ・イリカの輝きに対する美しさ」の涙であり、「救いの涙=感謝の涙」なのです。
「日常の大切さ」、それは分かるようで分からないことです。気付けるようで気付けないことです。
そんな何気ない日常を共有している意識だって持つことができない愚かな人間達です。
流されて、流されて… 気付かないまま過ぎ去って、気付いたら遅すぎたと思えて…
そこにエレナ・イリカ・シズカは一つの答えを提示してくれています。
「ごめんね、じゃなくて、ありがとうだよ」と。
感謝すること、今生きていることを感じること、その幸せを味わうこと、
それが日常の大切さを感じるということなのだと私は思いました。

今回、このネタばれ感想を書くにあたって、
「愛と死を見つめて」の最後の部分をパラパラ読んでみました。
そこには同じように「ごめんね」という言葉がありました。
この「ごめんね」をどう解釈するか、その答えがScarlett3章の姿だったのだと思います。
そしてそれがねこねこソフト解散に対するスタッフの想いでもあったのではないでしょうか。
「ごめんね、じゃなくて、ありがとうだよ」、その言葉を全ての人に送りたいです。




(更に追加)
3章ラストのシーン、この章で印象深く描かれている渡り鳥に関しても触れておきます。
レオンは最後にこういう趣旨の言葉を述べています。
「渡り鳥は一見自由に飛んでいるように見えても、実は同じ場所を飛んでいるだけで〜」
レオンは渡り鳥の優雅さに自由さ、日常からの脱却を見ていましたが、
実は渡り鳥は自由なのではなく、彼らも彼らなりの日常を生きていたということです。
そんな渡り鳥達が優雅に、そして眩しく見えるのは、
彼らが日々を懸命に生きていると私達が感じるからなのかもしれません。

この章における渡り鳥は、非日常・自由の象徴としてではなく、
どこにでもありふれた日常の象徴として描かれています。
その姿を見て日常の大切さを見つけることができたエレナ・イリカ・シズカは、
やはり日常の大切さを感じ取っていたということなのでしょう。



(その5:4章「日常」に関して)
その前に再度ストーリーに関して補足説明しておきます。
2章〜3章の章間「しずか」、
これは明人の日常との決別を描いたものです。
そしてそれとは逆に日常を求めるしずか、
3章をプレイして分かるしずかの本当の姿をプレイヤーは見ることになります。

3〜4章の章間「非日常」、
これは九郎・美月・アメリカの非日常を描いたものです。
少し言葉遊びになってしまいますが、私達にとってこの章の出来事は日常的なことです。
でも九郎や美月達、「非日常」が「日常」である人間にとっては、
私達の「日常」こそが「非日常」であるということです。
日常・非日常は相対的であることが描かれています。

3〜4章の章間「ルール」、
ここでは九郎の父・八郎が作った高級諜報家のルールの発端が描かれています。
4章の前振り的な意味合いですね。


さて、4章に関してですが、
これは3章のテーマを受けてストーリー的に完結したものだと言えます。
しずかと明人がどのようにして「日常」の世界に帰っていくのか、それを描いたシナリオです。
やや九郎や美月へのフォローが不十分だと感じるかもしれませんが、
この『Scarlett』の本当の主人公がしずかであることを考えれば、納得でしょう。
九郎が日常に行きたいと望むとすれば、それはまた別の物語です。
父・八郎のように新しいルールを作る、そんな物語が出来上がるかもしれませんね。

1章と同じくクルーザー上で話す九郎と明人。
あの時、九郎は日常の壁を越えて非日常にやって来る明人に憧れたため、
彼を突き放そうとはせずに非日常へと迎え入れました。
しかし4章の出来事をきっかけとした自分の判断の甘さと、
しずかが明人に惹かれた理由・明人を選んだ理由を悟ったことから、再び明人に解答を求めます。
明人は自分から積極的に日常へ帰る姿勢こそ見せませんでしたが、
あの島流しにあって、しずかと再開した時に気付いたのだと思います。
しずかの「分からない」、明人の「分からない」、それらは全て肯定の意味で使われていますから、
明人もやはり日常への回帰を求めていたのだと思います。
九郎は1章の時のように最後に一押しをした、そういうことなのでしょう。

しかし疑問点が一つあります。
あれだけ非日常に生きていた明人やしずかが
本当に日常の世界に帰ることができたのかということです。
普通に考えれば、あまりに多くのことを知っているわけですから、
政府から逮捕軟禁されてもおかしくないような…
またマザランのような高級諜報家に利用される保証がないとは言えないわけでしょうし。
まぁ、おそらくそこは九郎達が手を打ったのでしょう。
それとも最初から何らかの「ルール」があったのかもしれません。
レオンも直接的に監視されていたわけではなかったようですしね。
ラストの部分で無視を決め込んだのは、その表れのように感じました。



(その6:『Scarlett』のまとめ)
3章の最後の部分で関連して結論を先に書いてしまいましたが、
最後にもう一度まとめておこうと思います。

『Scarlett』で描かれているテーマは「日常の大切さ」です。
私達は繰り返しで退屈な日常を抜けて、今とは違う「非日常」を生きたいと思うことがあります。
「非日常」の世界に行けば何かが変わるかもしれない、
何かが見つかるかもしれない、そう思うからです。
明人がしずか達と会う前に全国を旅していました。それは彼が変化を望んでいたためでしょう。
でも環境を変えても何も変わらず、何も見つかりませんでした。
そして彼は非日常の世界に足を踏み入れたわけですが、
それでも何も変わることはなく、何も見つかりませんでした。

ただ何も「見つけられなかった」わけではありません。
しずかと出会い、かけがえのない人を「見つける」ことができました。
けれどもそれは「日常」とか「非日常」とかとは関係がなく、
彼が唯一変わったことは、「日常」の大切さに気付いたことでしょう。
誰かと一緒に過ごすこと、しずかだったり、育ててくれた母親だったり。
そんな周囲の人達と過ごすかけがえのない時間の価値を知ったことだと思います。
明人がベレッタのモデルガンを手にすることはもうないでしょう。
彼には日常に変化をもたらしてくれそうなものは必要なくなったのです。
例えどんなに環境を変えても、自分から探そうとしなければ変化は見つけられません。
逆にどんな環境にあっても、自分から探そうとすれさえすれば、色々な変化を見つけられるのです。
変化や願いはどこかに転がっているわけではありません。
日常生活の中でそれに気付くかどうか、見つけられるかどうかということです。


その「日常」の大切さとは何か。
それを語ったのが3章です。
私達は日々の生活に流されてしまい、「日常」の大切さを忘れがちになってしまいます。
日常はいつもそこにあるから、いつまでも続くような気がするから、
でも決してそんなことはなくて、全く同じ日はなくて、
全く同じ事件やニュースもなくて、全く同じ人間もいなくて…
本当は変化に富んでいる「日常」なのに私達はそれに気付くことができません。
そんな「日常」の大切さに気付く方法は「感謝」です。
今の自分の環境・境遇を受け入れ、傍に居てくれる人、周りで見守ってくれている人への感謝、
人だけではなく物だったり、自然だったり…
自分の周りにある全ての存在を知覚し、感謝することです。
「ごめんね、じゃなくて、ありがとうだよ」、この言葉を胸に大切な日常を生きたいものです。



最後にねこねこソフト様へ。
7年間どうもありがとうございました(ぺこり)
銀色からのお付き合いでしたが、その妥協のない作り様は素晴らしかったです。
ともすればユーザーに媚びたお約束な展開だけで作られたゲームが増える中、
自分達の作りたいもの・伝えたいものを守りながらも、
既存ユーザーを大切にする姿勢はとても、とてもありがたかったです。
最後の『Scarlett』ではまた新たな可能性を見せてくれいただけに、
これで解散となってしまうのは正直惜しいです。
みずいろキャラ達の活躍もまだまだ見たいですし、
銀糸の謎に迫る銀色完結編も見たかったですし、120円シリーズのカンナさんのHぃ話とかも、
そしてScarlettのアナザーストーリーだとか…
まだまだ色々なものを見せて欲しかったです。

それでもねこねこソフトさんの残してくれたものは深く深く心に刻まれました。
また今度は別の形で、新しいメーカーを作って活躍されるのか、
それとも各自がばらけて活躍するのかは分かりませんが、
ねこねこソフトで作ったゲーム以上のものを生み出せるように頑張ってもらいたいです。
寂しくもありますが、さよならは言わずに「ありがとう」と言ってお別れをしたいです。
ねこねこソフト様、これまでどうも「ありがとう」ございました!!



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